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R-002 「知ったかぶり音楽論」 三枝成彰 著

三枝成彰 著 「知ったかぶり音楽論」

今回紹介するこの本は1993年9月25日第1刷発行とありますから、だいぶ古い本になります。
当時、購入のキッカケと言えば、わたせせいぞう氏の「ハートカクテル」シリーズにハマっていて、そのテーマ音楽を担当していたのが三枝成彰氏だったからです。バブル最盛期、「アーバンシティ」や「シティポップ」といった用語がもてはやされていた時代に「ハートカクテル」シリーズは、洗練された若者のライフスタイルを描いて、当時のトレンドとして多くの若者たちに受け入れられました。

当初「ハートカクテル」は雑誌の連載漫画としてスタートしましたが、後に日本テレビでショートストーリーのアニメーションとして深夜に放送されました。ボクは連載漫画よりもアニメーションの方が好みで、当時は熱心にエアーチェックをしていました。(当時はVHSテープだったので何年か前にすべて破棄してしまいました)

そのシリーズのVol.5、Vol.6の2シーズンの音楽を担当したのが、上記の三枝氏だったのです。それまでに松岡直也、島健、TONY'S SHOWなど各氏がこのシリーズの音楽を担当していましたが、ボクのご贔屓は断然三枝成彰氏のシリーズでした。それ以前のシリーズ音楽とは一転して、オーケストラ主体のアレンジがクラシック好きのボクを惹きつけたのだしょう。
三枝氏のいくつかの甘く切ないメロディーラインも、共感できた要因のひとつだったのは当然です。当時そんな経過で三枝氏に注目するようになったのです。

ボクが愛聴しているCD「ハートカクテル Vol.5」

この本はこうした経過の延長線上で購入したのだろうと記憶していますが、なにしろ30年以上前のことなので真相は定かではありません。
ただ正直なところ、当時のボクにはあまり響かなかった本だったと思っています。何故なら当時のボクはクラシック音楽は好きでもオペラはチョッと苦手で敬遠していたからです。
この本の主題はオペラというか「楽劇」という新カテゴリーを創り上げたワーグナーの話が主体で、ベートーヴェンやショパンにも触れていますがオペラ系の話が多いのです。
自身もオペラを多く作曲(制作)している三枝氏の活動を思えば、当然に頷ける訳ですが、正直なところ当時のボクには、場違いな書籍だったのだろうと思います。

いまにして思えば、オペラもそこそこ聴くし、ワーグナーに至っては結構関心があるので、読み返して正解だったと思います。ワーグナーに関する書籍はたくさん出版されていますが、どれも重厚感があって、特に専門書系は近寄りがたい印象ですから、洋書における超訳のような存在と捉えればよいのでしょう。
したしながら、この本は読みやすく、理解しやすいだけでなく、ある程度深堀な部分もあってお薦めです。
ワーグナーの出生から幼少期の経緯が特に興味深くて、印象深く読むことが出来ました。あまり世に知れていないワーグナーの幼少期がとても重要で、その後の彼の人生、作品に大きく影響したことなどが、かなりのページを割いて書かれています。

ところで、作曲家という同業者の目で見る三枝氏の視点は、ボクのような音楽素人では思いもよらない部分まで及んでいて、新鮮に感じたと同時に流石だと思いました。例えばワーグナーの四部作からなる超大作「ニーベルングの指環」の全曲が、およそ15時間かかることや、三千ページに及ぶスコア、そして途方もない数の音符など、音楽を愛するものなら誰しも知りたい情報(知識)が、この本にはふんだんに盛り込まれています。
このことを知っただけでも「ニーベルングの指環」の全曲を聴きたくなってきました(本当ですか?)。
冗談はさておき、それくらいにこの本は、一般的に縁遠く思えるクラシック音楽を身近に感じさせてくれる三枝流の話術、秘訣があるのだと感心しました。

この他にも作曲家としての三枝氏の鋭い視点は、この本の中にたくさん散りばめられているのですが、そのいくつかを挙げてみると、

  • 理論的にはありえないことだが、ピアノは白鍵よりも黒鍵のほうがいい音がする。多分、人間の微妙な聴覚のせいなのだろうが、はっきりとした原因は不明だ。この説に従えば、黒鍵を多用すればするほど、美しい曲ができることになる。もちろん、そのぶん弾くのも難しくなっていくわけだが・・・・・・。
  • ショパンがピアノ曲だけで名声を得ていたことに対しては
    というのも、ショパンのオーケストラ(オーケストラの技術)は、あまりにも幼稚だからなのだ。はっきりいって、オーケストラの体を成していないし、作曲家としてオーケストラが書けないというのは、お話にならないのである。

といった二つの例を挙げましたが、上記の太字部分が著者の文章で原文のまま載せています。
ショパンに対してはかなり辛辣なご意見ですが、その一方でピアノ曲の譜面は誰よりも高度で、難解といった内容のことも書いています。実に同業者ならではの大胆で率直な指摘で、三枝氏ならではの視点だと感心しています。
ショパンのピアノ協奏曲第1番ホ短調作品11(アルゲリッチのピアノ、アバド指揮、ロンドン響)などは、ボクが高校生のころから愛聴していた超名盤ですが、オーケストラ部分の出来が幼稚だという指摘は、当書籍の帯紙にある「三枝流・独断と偏見の音楽論」そのものなのかも知れません。

マルタ・アルゲリッチ(P) ショパンのピアノ協奏曲第1番ホ短調作品11

さて、読書というのは当然に読み方に制限はない訳ですが、自身のレベルや嗜好に見合った書籍を選ぶというのは当り前のことなのですが、その選択を誤った際、無理に最後まで読破する必要はないとこの本を読み返してみて感じました。それは費やした労力もさることながら、何よりも大切な時間を浪費したことになるのですから。

振り返るに、高校生ぐらいまでは呪縛にかかったかのように、無理やり最後まで読み切っていましたが、そんな読み方では内容の理解は不十分で、身につくものはほとんど無かったように思います。
幼いころからの母親の「何に対しても勿体ない」という精神が染みついていたのか、頑なに「最後まで読み切る」という習慣は、ある時期までは続いていたようです。
大学に入ったころからは、一応自我(?)らしきものも芽生えて、物事に対する「YES、NO」はハッキリしていましたから、そう考えると、恐らく当時(この本を買った1994年前後)のボクはハッキリと「NO!」と主張し、この「知ったかぶり音楽論」を途中で放棄(あるいは挫折)したのだと思っています。
しかしながら、現在こうして再会したことで得るものがたくさんあった訳で、ながい目で見たとき当時の購入が決して無駄遣いではなかったと、この投稿を書きながら確信し自己満足に耽っています。人の好みは不変ではないので、いつか読む時期が来るだろうことを信じて、スペース的に本棚は無理としても、物置辺りに保管しておくことが必要だと感じた次第です。

「ハートカクテル」の音楽に始まり、機動戦士ガンダム「逆襲のシャア」のサントラなどを聴いていたころ、こうした楽曲を作曲する人は日頃どんなことを考えているのか興味があって購入した一冊だったと想像していますが、前段でも触れたように30数年前のことですから断定はできません。でも、おそらくそうだと思います。
本の内容は当時のボクにはいろいろな点で合致していなかったけれど、ここに来てようやくボクの音楽的センス(好み)がこの本に追いついたように感じています。

しかしながら、何年か前に知人に誘われてビゼーのオペラ「カルメン」を東京文化会館へ観に行ったのですが、その頃はもうオペラに対するアレルギーはないと思っていましたが、やはりダメでした。演目は「カルメン」と超有名で、歌劇団もボローニャ歌劇場とこれまた一流で、オペラファンにしてみれば最高の組み合わせだったと思いますが、相性の悪さは相変わらずだったようです。今のボクにとっては、ワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」や「さまよえるオランダ人」のハイライト盤くらいが適当なのかもしれません。楽劇、オペラとしてではなくて、管弦楽の一環としてワーグナーを楽しむという程度のフリークなのだと思います。

ワーグナー

最後に、この本のタイトルについて少々触れておきたいと思います。本来ならこの種のことは冒頭で触れるべきなのでしょうが、内容的にいまの時代においてとても重要と思ったので、最後にもってきました。

「知ったかぶり音楽論」というタイトル、この響きからボクが感じるのは、著者である三枝成彰氏の「強がり」であり「背伸び」です。そして、それが誰に向けられたものかといったら、それは西洋音楽の地元である欧米に対してだと思います。それは裏を返せば、わが日本(人)に対しての警鐘でもあるのだとボクは勝手に思ってしまいました。
著者の言葉を借りれば、「知ったかぶり音楽論」というタイトルに決めたのは「ちょっとした思いつき」とさり気なく言及していますが、これこそがこの本が言いたかったメッセージであることは間違いないと思っています。
三枝氏のそれまでの音楽活動の中で味わってきた苦渋は、西洋人から必ず言われる「なぜ日本人はどうして能や歌舞伎ではなく、西洋の音楽の模倣をやるのか」という疑問というか指摘だったのです。それは日本のアーチストがいくらベートーヴェンを勉強し練習しても、本場の西洋人には単なる真似事としか見えていないという厳しい「彼らの感想」だったのです。そのことは、まさに若かりし頃の小澤征爾氏が、活動の場を日本からアメリカに移した動機と重なる訳です。

また、次のような鋭い指摘もしています。

欧米の文化人や音楽家が、とても政治や経済について詳しいのにはびっくりする。逆に、政治家や経済人にしても、文化について語れない人はいないだろう。音楽やオペラ、アートなど、彼らは実に造詣深く、どんな場所に出ても堂々と渡りあえるだけの知識を持っている。

<途中省略>

おそらく、わが国の代表者はその会話に近づくこともできなかったのではないか。

上記の指摘はとても共感できます。ボクも以前からそんなことを感じていましたから。日本人はとかく「勉強一筋」、「野球一筋」、「芸術一筋」といった生き方を賛美します。古くから特定の分野に秀でた職人気質を尊ぶ価値観が根強くあって、今の時代も多くの人が依然として何の疑問も抱かずに「**一筋」を目指しているのも現実の状況のなかで見受けます。

三枝氏はこうした日本人の気質を、かつてこの本が出版された1993年ころから指摘している訳です。少なくとも国際舞台を目指す以上、こうした日本人独特のキャラクターは国内では美徳であっても、国際社会では通用しないと自身の経験を踏まえて警鐘を鳴らしてきた訳です。

オリンピックを見ていても、例えば外国の競泳アスリートの中には、水泳でオリンピックを目指す傍ら医学を勉強しているなど、「**一筋」ではないことに驚かされます。一人の人間として「大したものだ!」と感心します。
こうした現実は、日本人が能力がないからではなくて、昔からの伝統や習慣、そして何よりも意識(意欲)の問題が大きいのだと個人的には感じています。最近注目されている地政学的な要素も影響しているのかも知れません。

何れにしても、ある分野の知識だけでなく、音楽や美術など芸術的センスを持ち合わせていないと、世界では通用しないということを危惧し、三枝氏は強くそのことを実感して、この本の中で訴えているのだと読み取りました。
最近では、ビジネス本なのに音楽や美術など芸術をたしなむ必要性を説いている本などもあって、上記で述べたような理由からなのだろうと勝手に思っています。日本の社会が漸くにして気付いてきたのかと推察します。


何しろ今回紹介した「知ったかぶり音楽論」は古い本ですので、現在は書店では入手できないでしょうから、古書店か図書館等で探して一読いただけたら幸いです。

老体に鞭打って行った書籍の整理は大変にシンドイ作業でしたが、時にはわが蔵書らしきものを見直すのも、まんざら徒労ではなかったと大満足しています。ブックオフへ出す前に、いま一度ご自分の蔵書を点検してみては如何でしょうか。
毎月夥しい数の書籍類が発刊されている昨今、新しい本を求める傍ら、過去の購入本を見返すのも妙案かと感じた次第です。

断捨離が叫ばれて久しいご時世ですが、ボクは書籍はできればいつまでも手元に置いておきたい派です。

最後までお読みいただきありがとうございました。
from DaVinci-like