コンサートは行かない

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オーディオ再生機とコンサートの生演奏との決定的な違って何だろう?
今回はそんな音楽鑑賞の永遠のテーマ(?)に挑戦。しかしながら追及したところで何の役にもたたないと、自覚している話題だが、それでも真面目に考察してみました。

先ず押さえておきたいのが、オーディオ再生機の定義だ。スマホなどのモバイル機器ではない。自宅で聴くCD(レコード)プレイヤーやアンプ、そしてスピーカーなどを含めた音響機器のことだ。また、オーディオ評論家の皆さんがお持ちの超高級機ではなくて、私たちが手軽に購入できるレベルのものと考えていただきたい。

結論から申し上げれば、私が考える冒頭の問いに対する回答、それはオーケストラの弦(特にヴァイオリン)パートの音色、響きの違いだ。それもフォルテシモでなくてピアニシモで奏でられるときのあのデリケートな微音。あの繊細な表現は、生演奏の弦でしか出せない音だ。これには、どんな優れたオーディオ再生機をもってしても、生のオーケストラには敵わないハズ。ハズと表現したのは、私自身がオーディオ再生機の超高級機の音を聴いたことがないことと、そうでなければ理屈に合わないということの二つの理由からだ。もしオーディオ再生機の方が優るようなことがあったら、オーケストラの存在価値は根底から崩れてしまうことになるだろう。本末転倒、面目丸潰れだ。AIの時代でも、決してそんなことがあってはならないと私は思う。

さて、文才のない私としては、上記回答の根拠を上手く説明することができないのだが、具体例を示すことは容易だ。要するに、ベートーヴェンの交響曲第6番(田園)が証だ。聴けばすぐに納得できると思う。特に第2楽章「田園ののどかな風景」と第5楽章「嵐が去った後の牧人の喜ばしい感謝の気持ち」の2楽章に注目して聴いていただきたい。オーケストラが奏でるこの2つの楽章は透明感に溢れ、何処までも美しく響きわたる。
余談だが、ベートーヴェンという作曲家は、交響曲の第5番「運命」や第9番「合唱付き」など、感情の激しさや高らかに謳い上げる曲調が一般に知られている。だが、実は上記の田園交響曲のようにしなやかで流麗な作品も、またベートーヴェン作品である。なので、穏やかな曲もまた、彼の作品を特徴付ける両輪の一角を成していると言えるだろう。

ところで、ベートーヴェンが交響曲で自ら表題を付けたのは、この交響曲第6番(田園)だけと言われている。しかし、ベートーヴェンはこの田園で単なる自然の描写を音で表現しようとしたのではない。目の前に拡がる広大な田園風景から感じ得る叙情を、オーケストラの繊細な音の響きで表現しようとした作品だ。思えば、私が「叙情性」の意味を知ったのは、この田園交響曲によってだった。
この部分はオーディオ再生機でもそれなりに再現されるが、生のオーケストラの演奏で聴けば、歴然たる違いが判るだろう。特に、代表的な第2楽章の緩徐楽章は14分ほどの楽章だが、私は「この静謐で深遠な楽章がいつまでも続けば良いのに」といつも思ってしまう。

◇

かつて、私が中学生の頃だったと思うが、あるラジオ番組の懸賞応募に運良く当選し、コンサートに行くことができた。そのコンサートは、いまは亡き芥川也寸志氏の指揮で、確かオーケストラは東京交響楽団(あるいは東京フィル)だったと思う。これが私の生オーケストラ体験デビューだったのだ。

そのときの演目が、どのようなものだったかはまったく記憶にないが、弦楽器の音の美しさに感動したことだけは、いまでもハッキリと覚えている。その時の音は、それまでラジオやテレビ、レコードで再生されたオーケストラの響きとは、まったくの別物に思えた。それ以来、メジャー、マイナーの演奏家を問わず、自身の予算の許す範囲でコンサートに足を運び、多くの感動を味わってきた。それ以降、私のミュージックライフはレコード鑑賞と、時より足を運ぶコンサートの二刀流になった。

◇

だが、いまの私はオーディオ再生機派だ。
では、どうしてそうなったのか、その経緯(イキサツ)について、これからお話しよう。

実は、私が「コンサートは行かない」と決意した理由は諸々あるが、大きく分けて二つだ。

一つは、後に触れるアルゲリッチのコンサートチケット購入の際もそうだったのだが、要はチケット販売に対する不信感だ。私はこのチケット販売のシステムに対し、兼ねてからある疑問を持っていた。それはネット購入の際、チケット発売初日でも良い席が取れないというケースだ。既に、ほとんどの座席が埋まっていて、空席が僅かしか残っていないという状況に、何度も遭遇したからだ。繰り返すが、公表されたチケット発売初日の状況である。「インターネット先行販売」と銘打っていても、状況はまったく同じだった。
それなら「インターネット先行より前は、どんな販売形態があるのか?」と問いたくなる。この事態は、私にはどうしても理解できないし、納得できない。
S席、A席など比較的高額な席をチェックしても状況は変わらないので、考えられるのはファンクラブ優先ということか。それにしては前もって確保されている座席数が、あまりに多すぎるではないか。これでは、平等にチケットを得られるという機会均等が損なわれていることになる。先着順なんて見せかけで、コネや癒着のようなものが、こんなところにも蔓延しているのか。真相はミステリーのままだ。

もう一つは、チケット購入の際の各種手数料が掛かり過ぎる問題だ。例えば、現在のチケット販売のシステムでは各種手数料が、公演や取扱企業によって多少の差はあるが、チケット本体価格に上乗せされるのが一般的だ。そうなると極端な例では、チケット代金の1.5倍位に総額が膨らんでしまう。調べてみると、手数料の名目としては、チケット販売システムのサーバー運用費、コンビニなどへの決済代行費用、セキュリティ対策費、各種問い合わせ等に係る費用などがあるらしい。

一見、納得してしまいそうだが、冷静に考えてほしい。昔は上記で掲げた費用はほとんど存在していなかったではないか。そもそも、ネット対応でデジタル化したのは効率化のためで、販売側の都合である。以前のようにプレイガイド等での購入だったら、チケット代以外追加費用はかからないはずだ。
(ただし、プレイガイドまでの交通費はかかるだろうが)

そもそも、世の中の製品やサービスの価格設定って、材料費を含め製造にかかる諸経費、人件費など諸々の費用の総トータルに基づいて決められていたのではなかったか。それなら、コンサートチケットのケースで考えれば、アーチストの公演費用全般と「チケットの紙代、印刷費用+人件費」といった追加費用を含めたものが、本来のチケット代金で、これを購入者である我々が負担している訳だ。そう考えると、いまのシステムでは二重取りではないかと疑いたくなる。

このことで思い出されるのが、旅行代金だ。昨今の飛行機を利用する旅行代金は燃油サーチャージを追加で請求されるが、これと同じ感覚に思えてしまう。かつての旅行では、燃油サーチャージなんて存在してなかったのだから。

また、以下のような事例もある。私は以前、銀行のATMがどのような経過、事情で誕生したかを、別のブログで投稿したことがある。この銀行のATMに関しても、誕生からの歴史を知れば、これまで述べてきたケースと基本的には変わらない不合理性が存在していることが判る。興味がある方は下記より参照してください。
いずれにしても、すべてのツケは私たち利用者、消費者に回っていることが判るはずだ。

ブログ「銀行の手数料について考える」
https://jdnext.blogspot.com/2023/03/20230324blog.html

◇

話題を戻すとしよう。
2022年11月17日、横浜みなとみらいホールで「マルタ・アルゲリッチ&海老彰子デュオ・リサイタル」のコンサートが開催された。
マルタ・アルゲリッチのコンサートを聴くのは、私の長年の夢だった。できれば、ピアノ協奏曲を聴きたかったが、ご存知のように最近のアルゲリッチは協奏曲を封印したかのように演奏しない。

私が行った最後のコンサートビラ(表面)
私が行った最後のコンサートビラ(裏面)

私がアルゲリッチを初めて知ったのは、若き日のクラウディオ・アバドとのショパンの「ピアノ協奏曲第1番」だった。なので昨今、彼女が協奏曲から遠ざかっている現状は残念でならない。

だが、この時のデュオ・コンサートでも、その凛とした姿を拝見できただけでも満足ではあった。私が中学生のころに憧れていたアルゲリッチは、長い黒髪のミステリアスな「おねえさん」だったが、この時のコンサートの彼女は、白髪の老婦人になっていた。それでも、あの頃のミステリアスな雰囲気を垣間見ることはできた。演奏と演奏の合間に見せる表情には、大家としての余裕と聴衆に対する思いやりが加わっていたように私には感じられた。

アルゲリッチ(P)アバド(指揮)ロンドン交響楽団
ショパン:ピアノ協奏曲第1番

この時、私のなかで一定のケジメができていた。どんな形であれ、アルゲリッチのコンサートを生で観ることができたのだから、これを最後にコンサートを卒業しようと思ったのだ。
これまで述べてきたように、コンサートというイベントに付随する諸々のシステムや慣習、特にチケット販売形態に対し、私としては嫌気がさしていたし、納得できない部分が多々あった。
それでもコンサートがもつ一期一会の熱演、パフォーマンス、憧れのアーチストの容姿を直に拝見できるという醍醐味もまた、捨て難い要素として感じていた。
こうした二つの相反する要素が、葛藤として私のなかで近年ずっと燻っていたが、このアルゲリッチのコンサートでようやく決断がついた。
私が訪れる最後のコンサートが、憧れのアルゲリッチであることが、とても喜ばしかったし、光栄に感じられた。

さて、あの決断から3年半が経過したが、決意通り何れのコンサートも行っていない。
いまでは専ら、音楽配信とCD、レコードでの音楽鑑賞を楽しんでいる毎日だ。
人混みに分け入ることなく、極上の音(?)で好きな音楽をストレスなく堪能できるのは、今では私にとっての喜びであり、変わりない日常の一コマになっている。

最後までお読みいただきありがとうございました。
from DaVinci-like

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